Le Petit Journal d' AX

Carpe diem!
活在當下!
三川安敦-삼천안돈-मित्सुकव अंतोन-اسماعيل

Thursday, November 14

父の売店

「父の売店」

ハッカ人は一般的に小規模ビジネスで生活を営んでいます。私の父親も小さい売店で様々な生活用品の小売をやっていました。何でも売っている何でも屋さんです。これは私が幼い時の記憶です。

父から聞いた話では、若い時に布販売の営業さんとして田舎まで旅回わりしていたそうです。また、少し貯金が溜まった時にお婆さんの貯金と合わせて小さい駄菓子屋さんを開業しました。しかしながら、地元の大き火災で全て燃やされたため、開店は長くありませんでした。その後、どのお陰か分かりませんが、再び新しい売店を立ち上げることができたと聞いています。

この売店は、私が母親のお腹の中にいるときからありました。嫁に行ってからは、母は毎日売店でお手伝いしていました。はじめこの売店は中央市場にあり、とても古い建物でした。2階では山口洋市の人が写真館をやっていました。売店の向こうには一本の大きな木があり、その木の下には小さい珈琲屋さんがありました。私はよくこの珈琲屋さんの店員さんと遊びました。彼らから折り紙などを教えていただきました。麒麟や蛙や獅子の折り紙を作った記憶があります。

店の反対側には芝生があり、芝生の向こうでは叔母さんが文昌飯のレストランを経営していました。叔母さんのレストランに麺や飯を、父とよく食事しに行きました。私もこのレストランでお箸の使い方を父から教わりました。この周りに住んでいる幼馴染の記憶は阿勇さんや鼠明さんなどです。いつも店の前で鬼ごっこと隠れん坊をやっていました。

数年後、中央市場の再建築が決定されました。その際、パンチャシラビルの近くに暫時的な売り場、マレー語でポンドックという仮家屋に全ての売店さんが移されました。ここで何年売店をやっていたかは、覚えてません。そのうち新築の中央市場が出来上がって、我が家も新売店に入りました。

この店は素晴らしかったです。建物は2階まであり、さらに2階の上にもアティックがあります。1階と2階の間にはロフトがあります。2階に3つの部屋があって、真ん中の部屋には2段ベッドが設置されていました。父と一緒に何度かそこに寝泊りしましたが、その後は完全に物置部屋になりました。用心のため、父はロフトで寝てました。しかし、ものがすごく増えていきましたので、その後私も父とお泊りに行くことは無くなりました。

この店は一年中営業していて、年に一回旧正月の時だけ一週間の定休日がありました。父は年明け3日目には、半開け状態で営業していました。なぜなら、家でやることが無いと退屈ですし、どうしても仕事したかったからです。

私と店との付き合いは高校卒業後まででした。卒業後、故郷を去って都のジャカルタへ進学しに行きました。その後、父の店は波乱万丈を経て、市の中心部で再開することになりました。親は2階で暮らしていて、3階は倉庫にしました。それから、私も何回か故郷へ帰ったことがありました。最後に帰ったのは嫁さんの顔を親に合わせる時でした。運良く親からの反対の声はありませんでした。そのお陰で日本人の嫁を無事に頂くことができました。

父の面倒をみることはできないし、私たちも店を受け継ぎたくはなかったので、父の店は5年前に完全閉店に至りました。今、私はその父の店がなくて寂しく思うことがあります。いつか父のようにお店を立上げ、自分の思うままに自由に経営したいと思っています。いつこの夢を叶えることができるかわかりませんが、今もずっと頑張って毎日仕事して家族を養っています。息子に同じタイトルの文章を書いてもらえるように祈っています。





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